野島稔のプロフィール!ピアニストとしてのすごい経歴も紹介

ピアニスト
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こんにちは。

今回は、日本を代表するピアニスト野島稔先生について、野島稔のプロフィール!ピアニストとしてのすごい経歴も紹介と、題してお伝えします。

ピアニストとしても大変有名ですが、後進の指導では、門下生の藤田真央が第16回チャイコフスキー国際ピアノコンクールで2位入賞を果たしました。

ピアニストとして、指導者としてもすばらしい野島稔先生は、どのような経歴をお持ちなのでしょう?プロフィール、すごい経歴について、詳しく、お伝えしていきたいと思います。

野島稔のプロフィール

野島稔先生は、1945年(昭和20年)5月23日に神奈川県横須賀市で生まれました

そして「3歳からピアノを始めた」と、あります。

お生まれになった昭和20年はまだ、戦時中。戦争が終わったとはいえ、まだ戦後の混乱で大変な時だったのではないでしょうか。

「両親とも音楽家ではありませんでしたけれど、どうやら僕がまだ赤ん坊のとき、家にあったオルガンを弾くと泣き止むらしかったのです。それでおそらく、音楽が好きなのだろうということになり、当時はまだ珍しかったと思いますが、音感教育に力を入れていらっしゃった遠藤先生という方の教室へ3年ほど通いました。それは今にして思えば、非常にラッキーだったと思います。最初に音楽を耳と身体で覚えるという訓練をしたわけですから」                      ヤマハ 野島稔氏インタビューより抜粋

その時代に、家にオルガンがあったということも、当時としては裕福なお家だったのではないかと思われますし、レッスンは横須賀から鎌倉まで、通われていたようです。当時は今の様に道路も鉄道も便利ではなかったそうですから、通うにもご苦労があったと思われます。
小学生の頃からディヌ・リパッティが大好きで、写真を額に入れ、ピアノのそばに置いていたくらいですから「アイドル」でした。                           ヤマハ 野島稔氏インタビューより抜粋
レコードもいろいろあったというお話もありますので、クラシック音楽が幼いころからともにあったご家庭だったようですね。
生まれる前から生活の中で聴いている音や音楽があるというのは、芸術家としての才能を伸ばすものなのだと強く感じます。
野島稔先生のアイドルだったピアニスト、ディヌ・リパッティ(1917年3月19日~1950年12月2日)は、
ルーマニア・ブカレスト生まれのピアニストです。
アルフレット・コルトーに師事し才能を開花されましたが若くして病で亡くなられました。

ピアニストとしてのすごい経歴と師事した先生(前半)

7歳になると、多くのピアニストを育てた名教師である井口愛子先生のもとへ入門。

井口愛子先生は、日本のピアノ界於いて、ピアニストとしても指導者としても、とても有名な先生です。その井口先生から演奏技術と感性を育む時期に、多くのことを吸収したと野島稔先生は語られています。

井口先生のレッスンは、言葉より、先生ご自身が弾いてお手本を示してくださってのレッスンでした。厳しかったけれど美しい音楽や演奏は確かな技術を身に付けないと生まれないし、到達できないものだということを、小学生の心に音やフレーズの美しさを感動とともに刻み込んだ、素晴らしいレッスンだったということです。                                 ヤマハ 野島稔氏インタビューより抜粋引用

野島稔先生のオーケストラとの初共演は小学校5年生の時(ヴィルヘルム・ロイブナー指揮、NHK交響楽団)。
その後、野島稔先生は桐朋学園高校、大学へと進学されました。
1963年、第32回日本音楽コンクール第1位受賞。当時、高校3年生でした。
桐朋学園在学中に、東京フィルハーモニー交響楽団、日本フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会に出演。
井口愛子先生には、留学されるまで師事していたそうです。

ピアニストとしてのすごい経歴と師事した先生(留学後)

1966年、ソビエト文化省の招きでモスクワ音楽院に留学、レフ・オボーリン氏に師事する。
レフ・オボーリン(1907.9.11 ~1974.1.5)
モスクワ生まれのソ連の代表的なピアニストで、1928年からモスクワ音楽院の教授として後進の指導にあたられていました。
1927年に始まった第1回ショパン国際ピアノコンクールで優勝。
古典から現代曲まで、幅広いレパートリーを持つ演奏家として、また室内楽や、作曲家としても活躍した。
ハチャトゥリアンをはじめとするソ連の作品を、世界に紹介することでも尽力したピアニストとして知られています。
モスクワ音楽院で、ウラジーミル・アシュケナージを育てたことでも有名です。
1968年、海外派遣コンクールにて優勝
1969年、第3回ヴァン・クライヴァーン国際ピアノ・コンクール第2位入賞。
この時、「ピアニストの中のピアニスト」と呼ばれ高い賞賛を得ました
1970年、カーネギーホールにデビューし成功を収め、ニューヨークタイムズで絶賛されました。
以降、日本とアメリカを拠点として世界中で演奏活動を行うようになります。
その間ニューヨークにて、コンスタンス・キーン(1921.2.9~2005.12.24)と、エイブラム・チェイシンズ(1987.没)に師事しました。
コンスタンス・キーン(1921.2.9~2005.12.24)とは、アメリカの女性ピアニスト。
1964年にラフマニノフの前奏曲集のレコードを発表して高評を得たことで、フンメル、ウェーバーのピアノ・ソナタ全集も録音に収めています。
ニューヨーク市ブルックリン区の出身で、後に結婚するエイブラム・チェイシンズに師事しました。
1943年、ナウムブルク国際ピアノコンクールで優勝。
1946年、ヴラジーミル・ホロヴィッツの代役として演奏会に出演しました。
これは、当時大変名誉なことでした。
ルービンシュタインが、「その音色、勢い、想像力、それに、信じがたいほどの演奏技巧には吃驚仰天した。思うに、誰だって、ラフマニノフだって、ピアノをこんなに美しく弾けはしない」と、彼女を賛辞した言葉が残っています。
また、ルービンシュタインは
自身の子供のピアノの指導を頼んでいました。
エイブラム・チェイシンズ(1987.没)とは、ヨーゼフ・ホフマンの弟子。
ショパン名演集が録音作品として残っている。
作曲家でもあり、「ピアニストは語る」の著作者でもある。
チェイシンズのショパン演奏は男性的で躍動感があるのが特徴である。
                               Historical & New Piano Recordings CDより引用
2006年、出身地の横須賀にある、横須賀芸術劇場にて「野島稔・よこすかピアノコンクール」を開催し、後進の育成に尽力している。
2010年、仙台国際ピアノコンクール審査委員長を務める。
同じ年、6月にはベルギーでエリザベート国際ピアノコンクールの審査員も務める。
2011年、4月東京音楽大学学長に就任されました。
桐朋学園大学院大学特任教授にも就任。

録音作品の紹介

野島稔先生の録音作品をご紹介したいと思います。

1988年、「野島稔・プレイズ・リスト」

1999年、「野島稔・プレイズ・ラヴェル」

1986年と1988年にロシアで松村禎三の《ピアノ協奏曲 第2番》と《交響曲 第2番》を演奏。
この楽曲は野島自身に献呈されておりRCA Victorよりリリースしている。

このほかにも、東芝/EMIよりブラームス、シューマン(変奏曲)

「間宮芳生:ピアノ協奏曲 第2番/ピアノ・ソナタ 第2番(初演)」などがあります。

さいごに

今回は、日本を代表する名ピアニストであり、今や名指導者でもある野島稔先生について野島稔のプロフィール!ピアニストとしてのすごい経歴も紹介と、題して調べてお伝えしました。

野島稔先生は、世界のピアニストのルーツともいうべき、脈々と続く名ピアニストの指導を受けて来られた方でした。

門下生を通じて、先生が培われてきた努力と教えがこれからもしっかりと伝承されていくことと思います。

野島稔先生に関する、おすすめの記事をもうひとつ。よろしければごらんください。

藤田真央の先生は誰?恩師となった名ピアニストの学歴と経歴も紹介

いかがでしたでしょうか?

最後までお読みいただきまして、どうもありがとうございました。

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